I believe 3
世界が、壊れたと思った。
必死になって手に入れたと思ったものが、また、全部なくなった。
空っぽの手のひら。空っぽの自分。
足元が崩れて、一人で立つこともできない。
そんな中、差し伸べられた手に。
シンは、縋った。
「あっ・・・ン」
気持ちのいい声が、上がる。
さっきシンをぶん殴った手が、今度はきゅうっとしがみ付いてきて。
手にした体は、どこまでもやさしくシンを受け入れて。
シンを、泣きたいような気持ちにさせた。
「・・・アスラン」
呼ぶと、快感に閉じられていた瞳が、開く。
綺麗な翠色が瞬いて、ちゃんと、シンを映して。
「シ、ン・・・・」
ちゃんと、シンを呼んでくれる。
「いい、ぞ。もう少し・・・酷く、しても」
手加減をしていたのがわかったのか、アスランはそう言って、シンの頬に指を滑らせた。
「え・・・でも」
でも、俺、もうあんたしかいないのに。
あんた壊しちゃったら。
あんたまでいなくなったら、俺、もう、何も・・・・
今さっき、彼に殴りかかったことも忘れて、シンは彼の白い胸に、縋り付く。
「・・・・っく」
アスランの肌の上に、シンの涙がはたはたと落ちた。
「泣くなよ・・・」
やさしい腕が伸びて。
シンを、抱きしめてくれて。
「・・・・っク」
自分の動きに、思わぬところを抉られてしまい、ひくん、と身を震わせて。
「大丈夫、だ」
そう言うと、アスランはしなやかな脚をシンの腰に絡め、無理に身を折って、シンの目蓋に口付けた。
「お前は、大丈夫だ」
すぐに離れたアスランの声に、思わず顔を上げれば。
彼は、ほろほろと綺麗な涙をこぼしていた。
「大丈夫・・・だ・・・・」
そう言って、くしゃりくしゃりと、シンの髪をかき混ぜて。撫でてくれて。
俺じゃない。
あんたが。
でも、あんたがいれば、俺。
「アスランさんっ・・・」
深く突き込んだ熱い中が、やわらかくうねってシンを迎える。
「はっ・・・あぁ」
びく、と、跳ねた体は、それでも逃げずにシンに縋った。
抱きしめて、くれた。
その腕に、今度は、シンが縋り付く。
まるで、世界に二人きりのように。
「アスランさん、アスランさんっ・・・」
世界が、アスランだけになったような気がした。
そうならいいと、本気で思った。
それなら、世界は。
壊れてなんかいない。
なくなってなんかいない。
それなら、世界は、こんなにもやさしい。
「何で、あんた」
くしゃくしゃになってしまったシーツに身を投げて、まだ、ひくひくと四肢を震わせている人。
その藍色の髪に指をくぐらせ、シンはぽつりと呟いた。
「・・・お前が悲しいのは、俺も悲しいよ」
アスランはそう答えて、ゆっくりと、閉じていた瞳を開いた。
翠の瞳は、涙の名残に濡れている。
「俺は、たぶん、こうなることがわかっていたんだ。お前が、俺と同じに、すべてをなくしてしまうことが」
お前は俺に似ているから、と、アスランは言う。
「なのに、お前に違う道を示してやれなかった。だから」
「だから、罪滅ぼしに抱かせてくれてるってことですか」
知らず尖った声に、首を振って。
「俺は、そんなにお人よしじゃない」
そう言うと、アスランはもう一度目を閉じた。
眦に溜まった涙が、乾きかけた跡を伝って、また、こぼれる。
「俺だって・・・辛かったんだ」
そんなこと、シンだってとうに知っていた。
いつだって、景気の悪い顔をして。
戦うたびに、どんどん落ち込んでいく人に、酷く苛立ったこともあった。
それが、どうしてなのか。今ならば、わかる気がするけれど。
涙の跡に唇を寄せると、緩く開かれた瞳から、また、新しい涙がこぼれる。
「結局、俺はなくすことしかできないけれど。でも、今だけでも、お前の手を握っていていいだろう？」
アスランの手のひらが、シンの頬を包む。
そのぬくもり。
涙が出た。
二人で、泣きながらキスをして。
そのままじっと、朝を待った。
時刻が朝になったからといって、宇宙をさ迷う戦艦の中で、何が変わるわけでもなかったけれど。
シンが目を覚ました時、同じベッドに眠ったアスランの姿が見えなかった。
ベッドはまだあたたかくて。
「アスランさん・・・？」
それでも、呼んでも応えがなくて。
「アスランさん、アスランさんっ！」
パニックを起こしかけた時、軽い音と共にドアが開いて、トレイを持ったアスランが現れた。
「シン？」
「アスランさん！！」
我を忘れて飛びついたシンから、食堂で受け取ったサンドイッチのパックを守ったのだが、それでも飲み物のボトルは放り出されて。
「お前な・・・宇宙用のボトルじゃなきゃ、こぼしてたぞ」
「だってっ、あんた、いなくってっ！」
「・・・すまない。まだ寝てると思ったんだ」
そう言って、アスランはボトルを拾うと、サンドイッチの乗ったトレイと共に、シンに手渡す。
「食堂でキラに会って、少し話をしていたから。思ったより時間を食ったかな。・・・腹減ったろう。食べろよ」
トレイに残ったサンドイッチをシンに渡し、アスランは飲み物だけを取った。
あんなに泣いていたのに、酷く穏やかな顔をして。
それが、漣のように残った、シンの不安を波立てた。
「キラって・・・フリーダムの」
「ああ」
言ったアスランは、やっぱりどこか穏やかに笑って。シンは不安を通り越して、怖くなってくる。
シンがフリーダムを倒した時、あんなにも動揺していたアスラン。
あんなに頑張ったシンを問答無用で殴り飛ばして、ワケワカンナイこと喚き散らすほど、取り乱していたアスラン。
「キラって、誰？」
「いや、だからフリーダムのパイロットだよ。俺の幼馴染だ」
そう語るアスランの表情は、幼馴染のことを話す顔ではなくて。
怖い。
シンには、もう、アスランしかいないのに。
他に、何もないのに。
アスランには、他に依るべき者があるのだ。
「嘘つき」
「シン？」
「あんた、ぜんぶなくしたって言ってた。俺と同じだって言ってた。でも違うじゃないか！あんたにはそのキラって奴がいるんだろ！」
裏切られたと。
また、裏切られたと。
恐怖を怒りにすり替えて、シンはアスランの白い軍服の襟を掴み上げる。
そう、この色も。
赤くない軍服。この人の、裏切りの証。
激昂するシンの手が、持っていた飲み物やトレイを放り出して、アスランの喉を締め上げる。しかしアスランは少し眉をしかめただけで、シンの腕を掴んで軽々とそれを外してしまった。
「でも、あいつにはもう、俺は要らないんだ」
「何、ゼータクなこと・・・」
側、に、いてくれる人がいるのに。
要るとか要らないとか、そんな贅沢なこと、ずるい。
捕まえられた手を振り解き、低く唸ったシンに、アスランは淡々と言葉を重ねた。
「邪魔でもないようだから、側にはいられるけれど。それはつまり、いてもいなくても、同じだってことだろう？」
「あんた何・・・言っ、て・・・・」
更に食ってかかろうとしたシンは、静かに自分を見据える翠の瞳に、言葉を失った。
どこまでも透明なその瞳の前で、怒りが持続しない。
冷水を浴びせ掛けられたように萎んだ怒りが、また、恐怖に戻っていく。
怖い。
「俺は、要らないんだ」
そう繰り返したアスランが、シンは、怖い。
要らない、と、そう簡単に自分自身を切り捨ててしまえる彼が、怖い。
綺麗だと思って。
大好きだと言った、翠の瞳が、怖い。
「・・・あんたも、あいつが要らないんですか？」
震える自分を無理やりなだめ、それでも出た声はいつもの憤ったようなもので。
まだ虚勢が張れる自分に、少しだけ安堵する。
しかしアスランは簡単に言ってのけた。
「それは、関係ないんだ、もう」
「なんで」
なんで、関係ないの。
要らないんじゃなくて、それって、もっと。
酷くて、怖い。
シンの恐怖に気づかないのか、アスランはちいさく笑って。
「あいつは、たくさんのものを抱えていて・・・上手く、言えないんだが。その、もう、あいつの手には、俺の分の隙間はないんだよ。あいつは気がついていないみたいだけどな」
手に持った飲み物を弄びながら、アスランはここではないどこか、今ではない何かを、見ている。
「俺は、あいつが重くて困っているものを持ってやることもできない。それは、あいつの業だから」
スーパーコーディネイター。人の業を背負った子供。世界の破壊者、ラウル・クルーゼを作った遠因。ラクス、カガリ、オーブ、アークエンジェル。
彼が殺した、たくさんの人たち。彼が守った、たくさんの人たち。
アスランの罪を、キラが分かち合うことが出来ないように。
キラの業も、アスランは分けてもらうことは出来ないから。
「だから、仕方がないんだ」
ずっと手を引いていた幼馴染は、少し離れていた間に、もう、アスランの手など必要なくなっていて。
アスランの手を取るには、たくさんの物を持ちすぎていて。
だから、アスランはキラの手を放したいと思う。
いや、もう、放したと思っている。
持ったままでは、そのうちまた、俺はお前の重荷になるから。
これ以上、お前に辛い思いをして欲しくないから。
「あんた、あのキラって奴のこと、好きなんですか？」
シン声は、今度は二人、共にわかるほどに震えていた。
「ああ、好きだ」
言って。
アスランは、こんなにもキラが好きな自分を自覚した。
うん。キラ。
お前が、もう俺を必要としなくても。
お前の中に、俺の居場所がなくても。
たったひとりの俺のともだち。
俺は、お前が好きだよ。
アスランの、そのやわらかな微笑を見て。
シンは、逆にアスランがかわいそうだと思った。
怖くて、かわいそうで。
なんで、やっぱり大好きなんだろう。
「俺は、お前も好きだよ、シン」
そう言って差し伸べられた手に。
シンは、切ない思いで飛び付いた。
シンの空っぽの手のひらに、アスランの空っぽの手のひら。
アスランの空っぽの手のひらに、アスランの空っぽの手のひら。
空っぽの俺の手が、この人でいっぱいになればいいと思う。
空っぽのこの人の手が、俺でいっぱいになればいいと、思う。
そうしたら、もうきっと。
世界は、壊れたりしない。
なくなったり、しない。
腕の中の、あたたかな体を抱きしめながら。
あたたかな体に、抱いてもらいながら。
シンは、必死にそう願った。
そのぬくもりは、まだ、幸福にはほど遠いものではあったけれど。